Friday, January 26, 2007

クローン人間の「こころ」

クローン人間の「こころ」
 

 先日,茨城県東海村に行きました.子供4人とその友達1人と妻1人を連れて原子力発電所と再処理施設に関する博物館とテーマパークに遊びに行くためです.常磐自動車道を車で走っている時に家族の者から質問をされました.「脳を移植したらそのヒトはどっちのヒトになるのか.」「は?」「脳を渡した方のヒトになるの?もらった方のヒトになるの?」「そのヒトは,ドナーに決まっているじゃないか.」「でもその脳味噌の持ち主のものになってしまうんであれば,変よね.」「は?」「顔だって体だって動く体全部は,脳を受け取った側のものだから,受け取った側のヒトになるのよね.」「意識は脳にあるから,脳だけでも移植されたら体全体は脳を持っていたヒトのものだよ.」

 

 「細胞は死ぬ運命にある」ことで「ヒトも死ぬ運命にある」ということが分かっています.死ぬ運命にあるヒトの意識を移植でも何でもいいから残せるか可能性があるのでしょうか.「クローン羊」の成功から「クローン人間」の議論が盛んになり,マスコミを騒がせています.議論の主な点は「クローン人間を作製することは許容されるか」ということです.この議論はいろいろされていますが,クローン羊と同じ方法でできたクローン人間では姿かたちは本人と一緒になりますが,意識という点では全く別の個体となってしまいます.簡単に言えば今のクローン人間は,年齢の異なる一卵性双生児というふうにとらえると分かりやすいのではないかと私は考えています.意識が別では,姿かたちが一緒でも,ある意味では全くの他人です.そういう意識に注目した意味では現在のクローンは不十分です.クローンと言うからには,意識も一緒でなくてはいけません.たとえば,相手方のクローンがおいしいものを食べれば,自分も満足できなければいけませんし,自分が悲しみを感じているときは相手方のクローンも同じ感情を持って欲しいと言うことです.個々のヒトの同一性はやはりゲノム上にのっている遺伝情報に依存しているのではなく,そのヒトの意識が共有できるということが最も大切な気がします.もちろん,意識が共有できても意識は間違いなく肉体に影響されますから姿かたちは同一の方がよいでしょうし,その意識を司る脳味噌の構造もゲノムで支配されている通りに同一で会った方がよいでしょう.完璧なクローン人間を考えると,意識の同一性を満たした上で同じ遺伝子情報の上で形成される肉体ならびに精神(脳のネットワーク構造)を持ち得るようなクローンこそが私が欲しいものです.今のクローン羊の話から,自分のクローン人間を作ってくれと言うヒトがおそらくそこらへんは理解していないと推察します.

 

 コンピュータ上に新たに意識をつくることは可能かもしれないという考えを聞いたことがあります.一歩進んで,意識だけならその個人と同一のものをコンピュウター上に再現できるという夢物語があります.意識のクローンがコンピュータにできるわけです.コンピュータに自分の記憶と考え方のアルゴリズムを教えこみ自我(自分は誰だれであるという意識)を与えた場合,人間と同じ意識が生れてくるという楽観的な考え方です.楽観的ではあるけれども、大変,魅力的な考えです.しかし,この考えは,初めはあまり私を喜ばせませんでした.自分自身がコンピュータの中にいることを考えると嬉しくないと言うことです.ネットワークを介して世界中を駆けめぐることができてもいやです.計算能力が高いとほめられても,当然嬉しくありません.

 

 その説を仲間に話したら「インターフェースがむずかしいね.」と言われました.誠にその通りで,ずっとコンピュータの中にいるのであればかまわないのだが,人間の形のなかにいるには,人間の器官とのあいだでいろいろと信号のやり取りをしなくてはいけません.より詳細にいえば,イカの塩辛を食べれば塩辛いと感じなくてはいけないのだが,その舌の情報を神経のシグナルで伝えてもうまくいきません.何らかの別のコンピュータが理解できる情報に変換していなくてはいけません.逆のことをいえば,コンピュータに塩辛いという情報をインプットしてやれば,塩を嘗めている気分になる.あんまりやりすぎてもいけないのだが,「おいしい」という情報をインプットしてやれば,おいしい食事をしたことにもなります.

 

 ヒトによって違うとは思いますが,私はコンピュータの中でもいいから,自我が欲しいと今では思っています.その条件として,コンピュータと言う今のコンピュータの形ではなく,人間の脳内にいれて頂きたい.中身があればいいってもんではなく,外見も大事です.そこでクローンの技術に登場してもらい,本人の姿かっこが同じ入れ物を作ります.そこに,自分の自我が芽生えているコンピュータをいれ,完璧なクローンのでき上りです.私は決してクローン人間を作成することを賛成しているわけではありません.現在の方法でつくられるクローン人間は極めてくだらなく,基本的に意識のうえでまったくの他人であって,そんなものを希望したって意味がないことを申し上げたい.自分にとって意味があるクローン人間は意識の同一性を有しているもので,その可能性について具体的に示させていただきました.実は,本当はそれでもだめで,できあがったクローン人間と元の人間との間で意識,感覚の同時性も必要です.クローンが悲しいと思ったら自分も悲しいと思いたいし,自分がおいしいと感じたらクローンもおいしいと思ってもらいたい.さまざまな困難が在り,実現はほとんど無理だが,そういうものでしたら,自分のクローンが欲しいと言うヒト達の気持ちが分かります.逆にそういったクローンではない,クローン羊みたいなクローン人間は魅力を感じません.

 

 東海村に向かう車の中では,妻からもうひとつ質問をされました.「心(こころ)はどこにあるの?」だまって右手で左の胸を私が押さえると「心臓にあるんだったら,心臓移植を受けたら,心臓をもらったヒトは,あげたヒトになっちゃうの?」と真剣に追加の質問をされた時には私はこまってしまいました.そこで話を少し変えて,「心(こころ)で思うことによって存在するものだってあるんだよ.」「は?」「かわいらしい子供を見ると胸がキューとなることがあるだろう.胸のあたりが実際に収縮してキューとなっているのではなく,心(こころ)で思っているだけかもしれない.手足が切断されても心で「手の先がかゆい.」と思えばそのヒトにとっては手が「存在」していることになる.」心(こころ)でいろいろと「思っ」たり,「考え」たりするので,その個体がどのヒトかは心(こころ)のありかで決まってしまうんだろう.



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