1947年(昭和22年)4月 第一回町長選挙が実施され、宇田川謹二氏が当選
昭和三十四年の本州製紙事件では、宇田川謹二町長が岡島多三郎とともに先頭に立ち問題の解決を目指した。昭和四十年代まで、浦安の首長になれる者は漁協の幹部に限られていた。その理由は、町長としての報酬は無いに等しく、他に生活費を稼げない者はなれなかった。だから、たいていの場合、町長には網元がなった。
昭和26年4月1日 第3代宇田川謹二消防団長就任。
キティ台風による浦安の住宅の被害は全・半壊合わせて三百九十戸。全戸数三千二百四十戸のうち被害をまぬがれたのはわずか三百二十戸にすぎない。昭和二十四年九月一日未明、電話線が寸断され道路も水没し、外部との連絡はとれなくなってしまっていた。やむなく宇田川謹次町長は、風雨のおさまるのを待って、町職員に徒歩で千葉県庁まで救援要請に行くように命じる。
衆議院会議録情報 第006回国会 厚生委員会 第5号
台風による被害者に対し救済の陳情書(千葉県 東葛飾郡浦安町宇田川謹二外六名)(第二二九 号)を本委員会に送付された。
台風による被害者に対し救済の陳情書(千葉県 東葛飾郡浦安町宇田川謹二外六名)(第二二九 号)を本委員会に送付された。
街の歩みとともに「広報うらやす」 第1号発行から60周年2009年10月7日 60周年を迎えた「広報うらやす」 浦安市の広報紙「広報うらやす」が第一号の発行から六十周年を迎えた。第一号は敗戦から四年後の一九四九年九月、浦安町時代に「浦安町報」として約三千五百部を発行した。当時の宇田川謹二町長は「オープン政治が最も民主的である」と寄せている。
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